手織り作家

手織り作家

手織り

生活が厳しい中、母の介護をしながら私は高価な手織りを収集し続けました。
私は教師をしながら31歳の時、27㎡のワンルームマンションを購入しました。
その2年後上京してきた母と暮らすため、少し広い2K・39㎡のマンションを下北沢近くに買い替える予定が、買い替えできず2つのマンションを持つことになりました。
母が倒れ、母の介護などで仕事を退職し久留米に移住することにました。
苦肉の策として、東京の2つの自分の部屋を貸し、妹たちが住む久留米の3万円の古民家を借りました。
老人を連れて貸してくれる大家さんがなかなか見つからず、やっとのことで農家をしている大家さんが見つかりました。毎朝朝採れ野菜が家の前に置いてあり、とてもうれしく、助けられました。
家庭教師をたのまれ、母を看ながらそのわきで子供たちに勉強を教えていました。
はじめは久留米絣の古布を集めていたのですが、なぜわざわざ古いものを買うの?と母が悲しむので手織りを集め始めました。
大好きな母でしたが介護に疲れる日もあり、そんな中、私たちを手織りたちが慰めてくれました。
母亡き後、部屋の押入れの中は手織りの反物でいっぱいになっていました。

1.田中巌さん

手織りの作家で初めて出会ったのが田中さんでした。
括りの名手であり、当時、括り手としての人間国宝に、との声が織元さんたちから聞かれていました。
母亡き後、東京で絣屋を!と強く進めてくださったのが田中さんでした。
手織り機を作ってくれ、織の指導や実演に下北沢へ何度も足を運んで下さいました。
残念ながら今は廃業されています。

2.中尾一美さん

田中さんは括り手、織り手としては知られていましたが若いころに大病をして藍染はされていませんでした。
同じ文化財手織り作家の中で中尾さんの藍染は評判でした。
中尾さんと出会った頃、世の流れの中で仕事をどう進めるか迷っていたとき藍のことをたくさんたくさん語って教えてくださいました。
藍を育てることを第一に生活されて、ほとんど家を離れることがありませんでした。
清酒に灰汁に水あめを。
寒い冬の夜は括り糸を藍甕のまわりでたくんだよ、と。
まだ絣の洋服が売れなかった頃、私の持ち込む何でもかんでも、染めてもらいました。
そんなものまで文化財の中尾さんに染めてもらうの?と姉によく言われていました。
当時、姉も水洗いの手伝いに来てくれました。
藍染のブラウスやインナー、ストールなどたくさん売れました。
それが開店当時の藍木野を救ってくれました。感謝です。 

松枝玉記さん、哲也さん、崇弘さん

松枝崇弘「森の光・雨音」

松枝家で織の仕事を始めたのは玉記さんの祖父・光次氏です。
玉記さんは和歌に親しんでいたといい、文学性豊かな感性から生まれた様々な作品を残しています。
玉記さんは最後の人間国宝でその後残念ながら人間国宝はいらっしゃいません。
5代目、重要無形文化財技術保持者会長の哲哉さんが亡くなった後、
長男・崇弘さんが6代目として父の思いを継ぎ色々な柄に取り組んでいます。
そして26歳の若さで、68回日本伝統工芸展 日本工芸会奨励賞を受賞。
前年に哲哉さんの遺作が文化科学大臣賞を受けており、親子で2年連続の受賞となりました。

4.森山虎雄さん

初代の森山虎雄さんは明治42年に生まれ、家業であった久留米絣の制作に従事。
昭和34年に久留米絣で人間国宝に認定されました。現在は2代目・森山虎雄さんがその技術を受け継いでいます。亀甲柄、蚊絣など小柄が特徴です。

5.小川内龍夫さん

ここ40年程の内に一番たくさんの手織りを織られたのは小川内さんではないかと思います。
小柄から大柄まで藍の濃淡の美しい幾何学模様まで、
小川内さんを伺うごとに魅了され予定していた予算では足りなくて
近くの郵便局に走ってお金をおろしに行ったことを覚えています。
残念ながら、3年ほど前に廃業されたそうです。
本当に頑張られました。お疲れさまでした。
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